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先日、メディア関係の知り合いSさんと話をした

Sさん:「震災20年に向けて何か考えてる?」

私:「震災20年よりも、私は、子供たちの成人式のことを考えています。
20年は、区切りかもしれないけれど 私にとっては、特別な思いはないです」

Sさん:「20年に向けて、今色々と考えているところ。
その1年だけのものではなくそれに向けての何ができるか 何をすべきかを考えています」

私:「15年以降は、震災を伝える。きょうだいを亡くした子供たちの想い。
若者たちの活動。などがテーマな気がします。」

Sさん:「それだけでは、ないけれど それが主だったよね」

私:「他のメディアでは、取り上げないような視点で番組を作ってほしいな」

Sさん:「色々と考えてみます。」


今年は、「1.17から3.11へ」

過去のものになってしまって
あんなに 阪神大震災のことなんて いつまで言っているの?
今更、特番なんて・・・と言っていた
東京の人たちが 、必死になって伝えている様子を見て
なんだか、複雑・・・

阪神大震災を経験してなかった人にとって
結局は、他人事だったんだろうなと・・・

東京で、防災について 若い人や子供たちに考えてほしいと
何年も活動をしていた友達

一緒になって震災のこといのちのことを伝えるイベントを
計画してきました

若い人は、興味がなく なかなか集まらず…

防災のイベントにも人が集まらないと嘆いたのに
3.11以降は、たくさんの人が集まってくれるとのこと




震災10年までは、
兵庫県主催の「阪神・淡路大震災10周年追悼 式典」があったけれど
11年目からは、『ひょうご安全の日のつどいの「1.17のつどい」』に変わり
「遺族代表の言葉」も「県民のことば(新成人2名)」になりました。

なんなんでしょうね
その区切りは…

阪神大震災の経験
よかったことは、そのまま
そうでないことは、改めて 3.11へつなげていけたらいいなと思います

ちなみに私の住んでいる市では、
追悼の集いは、10年で終わり
地震が起こった時間に慰霊碑に市長さんが献花するだけになりました

10年までは、市の費用で献花のためのお花が用意されていましたが
11年目からは、市がそのお花の費用が出なくなりました

今では、市役所の有志の方々の寄付と慰霊碑のところに来られた方たちによる
募金でお花を用意してくださっています。


時間が経つにつれ、街は復興し 日常が戻っていく中で
絶対に戻って来ることのない『いのち』

いつまでも 亡くなった子供のことを想い
そして、それを表現し続けることに対して
いろんな意見があることを肌で感じ

想いを自分の中だけに閉じ込めるしかなくなってしまいます

そうしないと 日常生活の中で暮せない…
特別視されてしまう

亡くなった子供への想い
相手に気を遣わせてしまうのがわかるから
話せなくなってしまう

震災当時同じような思いを持って集まった人たちも
17年もたつとそれぞれの想いの中
それぞれ 前を向いて歩き始めて 
あの頃のように集まって 話をすることもなくなってくる

想いを出せるのは こうやってブログに綴るか
メディアの取材で話を聞いてもらうか

絶対に行きたくないと思っていた
カウンセリングやグリーフケアということをやっている
先生に聞いてもらうか…

わかってもらえない わかっていても
他に話す人がいなければ その人たちにしか頼れない

悲しいけれど…


東日本大震災で被災された方たち
傷ついたたくさんの方たちは、どうされているんでしょう?

話す場所があったとしても
話せずにいる方たち 心配です

でも、話せずに  話さずにいることの方が
楽な方もいらっしゃるでしょう

被災地を離れて暮らされている方は
きっと、周りの方にも理解されず孤独に押しつぶされたりしてないでしょうか
あの日の私がそうだったように…

今、どんなことが必要なんでしょう?
私にどんなことができるのでしょう


自分の想いと向き合って それだけで精いっぱいな私は
行動できずにいることに 罪悪感さえ感じてしまいます
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2012.05.23 Wed l 阪神大震災への想い l コメント (0) トラックバック (0) l top
昨日の夜 寝ようと思ったら
地響きのような音が聞こえ 家が揺れている感じがした

風の音?何何??

錯覚かなと思ったけれど
地響きは、止まらないし ますます家が揺れている感じがする

もしかして、窓が開いて隙間から風が入ってるの?


このまま、大きな揺れが来るんじゃないかと思ったら
心臓がドキドキして苦しくなってきた


そうこうしているうちに
それらの音の原因は 道路工事?かなと思った
そういえば、こないだ夜の10時ごろ
近くの道路で工事をしているのを見かけた

でも、今、時間は、夜中の2時で
こんな時間にあんな音をたてて工事をするんだろうかと
思いつつ、きっと工事をしているんだと自分に言い聞かせていた


地響きのような低い音と振動
そして、背中で感じる家の揺れ

大きな揺れじゃないけれど
あの時 背中で感じた揺れを体が覚えているようで
体が揺れを怖がっているのがわかった

こんなにドキドキしている自分
あらためて、あの日のことがいまだに
処理できていない自分がいることを知った

17年と4か月

そういえば、その前日、目が覚めたら
5時45分だった

先々週から続く体の緊張は
やっぱり ストレスによるものなんだ


今日は、工事の音がしない
ゆっくりと寝れそう
2012.05.20 Sun l 心のケア l コメント (0) トラックバック (0) l top

ふと、PCの隅っこに表示されている
時計を見た

「1:17」

『117』その数字を見ると どんな場合でも
ドキッとする

あとは、「5:46」の『546』

朝、ふと目が覚めて 時計を見ると 5時46分だったりすると
そのまま、眠れなくなってしまう  今でも…

時計だけじゃなく 車のナンバーや買い物をした時の金額
ロッカーの番号などなど

日常のいろんなところに 『117』『546』は、潜んでいて
突然、私の目の前に現れて ビックリさせられる

あと、私の時間の基準として
1995年1月17日がある

それを基準として 前なのか あとなのかを考えてしまう

「・117」とう車のナンバーを見ると
この人、震災で何かあったのかな?と思ってしまう

たまたま、その番号になった人もいるだろうけれど
あえて、その番号にした人もいるんだろうな…

私にとって『117』は、とても辛い数字
でも、絶対に忘れたくない 大切な数字でもある


あと 気になる言葉として
『1歳半』がある

いろんな場面で子どもの年齢が「1歳半」なんだと 聞かされた時
一瞬、顔が引きつってしまう
そして、将君の姿を思い出してしまう

「可愛い時期だね」と言えたら、私、すごく頑張ったとほめる

その言葉の裏には、『私は、そんな可愛い時期の息子を失ったんだよ』という気持ちがある
そう言えたら、楽なんだけど そんなこと言ったら相手の人に
嫌な思いをさせてしまうと思うから 心の中だけにとどめておく


そんなそんな 日常のちょっとした事にも
心が動揺してしまう私がいる

17年もたっているのにね…

その動揺をどう自分で処理するか。。。

17年たち、その処理の仕方が すこし上手になった気がする

とはいえ 最近ちょっと、体調がよくなく
胃痙攣のような痛みが 突然襲ってくる

胃から 食道 のどのあたりまで 痛くなって苦しくなる
その痛みは、背中まで広がっていく
2012.05.18 Fri l 阪神大震災への想い l コメント (0) トラックバック (0) l top
娘に成人式の振袖の案内が届いた

震災後に出会った 子供を亡くした親の会の文集に
亡くなった子供の成人式をどのように過ごしたかという手記が
掲載されていた

その方は、亡くなった御嬢さんの振袖の代わりに
お部屋いっぱいのお花を飾って 成人式を迎えたと
書いていらっしゃった

そのころ、娘は、2歳か3歳だったので
二人の成人式って まだまだ ずっとずっと先だと思っていた

でも、そのころから 成人式をどう過ごそうか
何度となく 考えたりしていた

息子のために どんなことをしてあげれるだろうかと…

お部屋いっぱいのお花を飾るのもいいかなと思ったりしたけれど
亡くなった息子のための成人式のことを考えると
辛くなるので いつも 考えるのを途中でやめてしまっていた


PTSDの治療をしている去年の暮
ふと、息子の成人式に向けて 本(絵本も含む)を
出せたらいいなって思った

もちろん 販売できるものでなくてもいい
親の想いを形にできればいいって…

でも、何から始めていいのやら
漠然と思っただけなので わからないまま
年が明けた・・・

そして、娘の成人式の着物の案内が届き始めて
何も考えてないことに ちょっと焦り始めている

そして、思ったのは
男の子のところには、女の子の着物のように
成人式の準備のための 何か案内が届くのだろうかと。。。

大学に入るこの春は、娘と息子宛に2通
記念写真の案内のお手紙が お宮参りに写真を撮った
写真屋さんから届いた

男の子には、成人式のための案内が届かないのなら
別に いいんだけど 他の同じ年の男の子の家に
成人式の準備のための案内が届いているのであれば
息子に届かないのは、やっぱりさみしいなって思う

いやぁ 死んじゃったんだから 仕方ないんだけど 
でも、仕方ないではすませることができない
さみしさがあるのよね

世間では、いなくなってしまっている息子だけど
私にとっては、死んでしまっても 大切な大切な息子だから
目の前には、いなくても 何か成人式のために
形に残ることをしてあげたいなって思う

息子の成人式のために これをしてあげたんだと
何年か先の自分が 納得できることを…

息子のためでなく 自分のためじゃないの?って言われたら
何も言葉を変えることはできないけれど
自己満足だけなのかもしれないけれど

それをしなくては、成人式を迎えることができない気がして。。。

残していた育児日記と写真を整理して
二人のためにアルバムを作ってもいいかな…

二十歳の誕生日まで あと1年と2か月弱
成人式まで 1年と8か月…

他の人は、亡くなった子供のために 
どんな成人式を過ごしたんだろう?
2012.05.13 Sun l 将君への想い l コメント (0) トラックバック (0) l top
ある人(Aさん)に 最近、息子のことや震災のこと 竜巻のことなどなどで
ストレスがたまって 精神的にしんどいという話をした


A:「まだまだ 消化できてへんねんなぁ」
私:「そうですね まだまだ、消化できてませんねぇ きっと一生無理です」
A:「現実は、変わらへんねんから いつまでも思っててもしょうがないやん 自然災害やねんから・・・」
私:「そうなんですけどねぇ」
A:「そのことに関わっていかない方がいいんちゃうの? 見ていてもつらいやろうし 自分のことと置き換えて考えてしまって余計に辛くなるし」
私:「それはできないです そうすることしかできないし」
A:「でも、そんなにしんどかったら 気持ちを切り替えるしかないやん しんどくならないように気持ちを持っていかないとあかんのちゃうの?」
私:「そんなことできないです」
私:「東日本大震災までは、ずいぶんできるようになったんですけど あの映像みたり辛い経験をした人たちの映像を見たので 今は無理です」
A:「自分は、そういう経験をしてないから わからへんけど みんなそれぞれいろんなストレス抱えて生きているし 頑張っているんやから」

そんな会話をしていると 涙が出てきた

言うんじゃなかったと・・・

今まで、何度もこんな会話を経験し
そのたびに 想いを人に話すことに 抵抗を感じ
人に話すことができなくなりました

私は、何らかの形で想いを出さず
自分だけの中で抱えてしまうととてもしんどい人

伝えること 話すことの意味を考えながら
何度、引きこもってきたことでしょう


そんなこと 自分では理解していたつもりで
この人は?と思う人しか 想いを伝えることをしなくなってしまったけれど

その人が、阪神大震災の時に被害を受け お世話になっている人も
お子さんを亡くされたということや
その人のお子さんと奥様が この春 東北にボランティアに行かれたりと
息子のことや震災のことを話したことがあるので
油断していました・・・

いや、甘えてました・・・

また、人に直接 話すことが怖くなりました
17年もたって いつまでも 息子のことを悲しみ
そして、ちょっとしたことで いろんなことを思いだして
悩んだり、泣いたり 苦しんだりしている私は
人から見ると まだまだ、立ち直れない 弱い人間なんでしょう

帰り道、運転しながら その人との会話を思い出して
涙が出そうになりました


経験した人には、絶対にわかりません
今、あなたの子供が、天国へ旅立ってしまっても
そんなふうに強くなれますか?

自然災害やからって 仕方ないと思えますか?


自分でも、わかっています
こんなふうに 色んなことかかえて生きていくことが
自分にとって 辛いことを・・・

自然災害だったから もう、17年もたったから
気にして生きていても仕方ない 前を向いて歩いて行こう

そう思えたら、どんなに楽でしょう

守れなかった苦しみ 自分が生きてしまった苦しみ
そして、自分の命よりも大切な子どもの
生きるべき人生を送らせてあげれないという苦しみ

わかってほしいとは 思わないけれど
そんなふうに言われると ただでさえ 苦しい気持ちが
もっともっと 大きく深くなってしまう


こんなことで 動揺し 悲しくなってしまう私は
まだまだ、弱い人間なのね

息子のことを思い続けること
もっともっと 胸を張って 誰に何を言われても
強くいられるために 頑張らないとね
2012.05.11 Fri l 将君への想い l コメント (1) トラックバック (0) l top
娘が、学校から帰ってくるなり
「ゆうへ」の本をちょうだいと 言ってきた


理由を聞くと

今日、大学のジャーナリズムの講義
テーマは、東日本大震災だったそうだ
先生は、元M放送関係者だそうだ

津波の映像などを流すので
辛い人は見なくていいから 外に出ていいよと
先生が、言ったので 外で1時間待っていたそうだ

娘は、東日本大震災後の津波の映像を見てから
その映像を見るのが辛くなるようで
当時、テレビを見てると 吐きそうと言って
見るのを嫌がっていた


来週は、阪神大震災がテーマだという

授業が終わった後 直接先生に声をかけたそうだ

阪神大震災できょうだいを失っていること
東日本大震災後のGWに 岩手県にボランティアに行ったことなどなど

話しているうちに 興奮して?感極まって?
泣いてしまったそうだ

そっか
自分で将君の話をしたんだね

娘の学科は、マスメディア関係

取材の在り方などなど・・・
少しでも変えていくことができるといいね

保守的な世界なのかな?
変えようと思っても かえることができない世界なのかな?

大学が決まったときに
私の周りの遺族の人たちと 冗談ぽく言っていた
「報道被害についての論文を書けば?協力するよ」って。

これからいろんなことを勉強する娘
ちょっと、羨ましいです

私は、今、大学に行くとしたら
心理学科か娘と同じ学科に行きたいな
2012.05.10 Thu l 優ちゃんの想い l コメント (0) トラックバック (0) l top
東京の友達から
知り合いが、取材され 放送された番組を録画してほしいと
連絡があったので 今、そのDVDを探して ダビング中…

こうやって 震災関係のことや
将君への想いを書いていると しんどいけれど
落ち着く・・・

私の日常は、きっと 話さなければ 子供を亡くしたとは思えないような
普通の生活が戻ってきている

でも、そんな生活中でも
将君のことを普通に話題にしたと思うことがあるけれど

最近出会った人たちには
なかなか将君の話をすることができない

本当は、普通に話したいし
想いを聞いてほしかったりするけれど
この17年間の経験から その話題をするのが怖かったりする

最初のころは、人に何を思われてもいいから
将君のことを話そうと思っていた

人が、離れて行っても 話そうと思っていた
でも、今それができなくなってしまった私

東日本大震災が起こり、あの日のことを思いだし
かさぶたになっていた傷ついた心が 再び血を流し始めた

去年の秋から 再発した(?)PTSDの治療を受けることになった

その治療は 辛くてできないことを
何度も挑戦して できるようにするという治療方法

震災の時のこと お葬式のことを話したり
見れなかったビデオを見たり いまだに抵抗のある
小さい男のとの交流などなど・・・

しなくてもいい治療・・・
でも、あえて 私はそのつらい治療を受けることにした

私の中で いまだに消えない感情
自分がどうして生き残ってしまったのか

主人と喧嘩したり 娘と喧嘩したときに
あの時に死んでいれば こうやって主人や娘に
きつい言葉を言って 悲しませなくてもすんだのに
傷つけなくてすんだのにと。。。

どうして 死ななかったんだろう
みんなの記憶の中から消えてしまいたい という思い



私は、将君のことで
いっぱい泣いてきました いっぱい後悔してきました
いっぱい自分を責めてきました

そして、そこから 歩いてきました
しっかりと前を向いて歩苦ことができるようになった
そう、思っていました

でも、今思うのは
そうやって17年生きてきたけれど
自分のために生きてきたというよりも
将君のため 娘のためにと
苦しみ悲しみを抱えながら
必死に前を向いて 生きようとしてきただけで


苦しみ悲しみを納得したわけじゃなく
それらが、なくなったわけじゃなく


ただ、ぎゅーーと小さくして
心の奥底にしまいこんでいただけじゃないのかなぁ~
って。


ずっと前から 自分が生きる価値がない
一緒に死んでいればよかったと思っていたけど
いつ、そんなふうに 思うようになったかなんて
考えることもしなくなっていた

今回の治療の一つとして
自分の書いたものを 整理して読み返した時
私がそう思うようになったときのことが書かれていた

私が、精神的にぐちゃぐちゃになって
家で荒れていた時期があった(そんなことさえ忘れてた(-_-;))
その時に、私の言動で 主人が泣いたみたい

その泣いている主人を見た時に
自分は、死んだほうがよかった
私がいることで 主人を傷つけ 悲しませていると思ったらしい

今でも 主人や娘と喧嘩したら
死にたくなってしまう

17年たった今でもね

死んじゃいけないことは、わかっている
でも、ふととっさ的に死んでしまいそうになって
それがとても怖くて 治療を受けることにした

結果…
ちょっとだけ 失敗かな?笑

100%ってわけじゃないけれど
その想いは、消えないから

で、先生と話をした
結局、私は生きる希望 生きるための目的が
いまだに見つけられていないということ

娘を育てるために頑張ってきたけれど
その娘も成長していく

更年期もあるんだろうな・・・

頑張れる時と頑張れない時がある

そんな自分も受け入れることができるようになったけれど
やっぱり ダメなときはダメ…


阪神大震災の時、私は、30代前半だった
後、何年生きなければいけないんだろうと思うと
気が遠くなりそうだった

その時に80歳ぐらいのおばあちゃんが羨ましかったな


震災から1年たった時
初めて「未来」というものの存在を意識したのかもしれない

それまでは、前を見る(歩き出すとは別)余裕もなく
その瞬間瞬間を生きていた

未来を見た時のことを覚えている

私の前に 天まで届くような幅の狭い階段が
そそり立っていた

一番上は、見えなくて 延々に続いていた

私はその階段の前に立っていた
まだ、1段目に足を載せることもできずにいた

その階段の高さを見て愕然としていた



あれから17年
6年目頃から 毎年、1月17日に その階段を一段一段昇っていると
感じることができるようになった

歩いてきた道(過去)を振り返ることができるようになった
歩いているつもりはなかったけれど
振り返ってみると あの日から 歩き出していることを感じた

そのことに対して 嬉しいというよりも
悲しかったかな?

元気になってしまっただと。。。
もっと、もっと悲しまなきゃいけないと
自分から 悲しみの中に自分を戻していた

1歩進んでは、3歩戻って。。。っていう感じ(^_^;)

震災から10年たったころ
前を向こうと一生懸命だった私がいた

震災に関わることができなくなってしまうほど
前しか見なくなっていた

でも、その前にあるのは 将君だった
将君に向かって 前を向いて歩いていた

いくら前を向いて歩くようになっても
将君の存在は、私の核となっていた

笑顔の向こう(裏側)にある 悲しみや苦しみ
それをわかってほしくて いろんな言葉で説明してみたけれど
上手に表現することができなかった

取材を受けることもできなくなった

振り返ってみると そのころの私は
いわゆる「躁」状態だった

「躁」の後には、必ず「うつ」期が来ることは
それまでの経験で知っていた。。。

予想通り「うつ」期に入り
引きこもって生活するようになった。。。。

今も、実は「うつ」期
でも、人とかかわることはできています

きっと、人から見ると 普通に見えているだろうな


昔の想い出 この間から 色々と書いているけれど
書き出すと色々出てくるね

こんなこと日記に書いてどうなるのかな?と思いつつ
私は、記録や想いの掃出し場所として 日記を書いているので
書きおわると ちょっとスッキリします
2012.05.09 Wed l 阪神大震災への想い l コメント (0) トラックバック (0) l top
IMG_3915.jpg

ベランダでミニトマトを育てることにしました

震災の次の年、新しく家を建てました
外に出れない私のために 娘と一緒に遊べるお庭も作りました

そこに ひまわりとミニトマトときゅうりやピーマン ナスを植えました

夏には、たくさんの野菜を収穫することができました

初めてできた 野菜は 娘と一緒に収穫しました
娘と将君にお供えをしました

娘は、ミニトマトを一個だけ 将君の仏壇に置きました
娘の想いの詰まったトマトです

我が家では、仏壇に一番にお供えをしてから
いろんなものをいただくというのが 普通かもしれませんが

私たちは、それを娘に強制することはしませんでした
生活の中で 自然とそうできるときと
あ、忘れてた。。。っていうときもあったので(^_^;)

でも、10年以上 食卓には 4人分のご飯を並べてきました

娘も取り皿を4枚持って来たりと
自然にそういうことをするようになりました

でも、中学生になったころ
いつまで そういうことを続けるの?と娘に言われ
(自然な会話の中で自然な形で)
娘の気持ちを尊重するべきかどうか悩みました

で、できるときは、4人分するけれど
できない時 たとえば お魚が3キレしかない時などは
3人分で用意するようになりました

自然な形で徐々に変化していき
今では、3人分しか用意しなくなりました

でも、決して将君への想いが薄れたわけではなく
仏壇やものなどの形にとらわれなくなっただけです

あんなに毎日、仏壇の前に座って泣いたり
お経をあげていたのに 今では、まったくと言っていいほど
仏壇の前に座ることはありません

そんな自分が 冷たい母親だとは思っていません
だって、将君のこと 大切に大切に思って生きています
将君のことを思うから 前を向いて歩かなきゃとか
笑って生きていこうとか思ったりできるようになったのだから

前を向いて頑張って生きていること
笑顔いっぱいで楽しい日々を送ろうと頑張っていること
そのすべての原点は、将君への想いがあるからです

そして、娘がいるから それが続けていける
そう感じています

随分、話がずれてしまいましたが


久しぶりのミニトマト栽培で
ふと、あの頃のことを思い出したので 書いてみました
2012.05.07 Mon l 将君への想い l コメント (0) トラックバック (0) l top
阪神大震災後
悲しみ以外の感情などを感じなくなった

お腹がすいたという感覚もなくなった
食欲もなくなり ご飯を食べたいとも思わなかった

食べなきゃと周りの人に言われて
口にしたけれど それを飲み込むことができなかった

「やつれて」行く私を
きっといろんな人が心配してくれていたと思う

避難先の宝塚から
山口県の実家に帰って来て
将君のためにお供え
(お供えという言葉は、死んでしまった人への言葉なのでその言葉を使うのはとても嫌だったけれど、ここでは一応わかりやすいように使います)
したごはんやお菓子。
それらを捨てることができなかったので
私がそれを食べることにした

あの時の私の命をつないでくれたのは
将君のためのお供えの品々

食欲がなくても のどを通らなくても
それだけは、食べることができた

食べてあげなくちゃって思ったから…


月命日には、毎月お寺さんに来てもらっていた
そのたびに用意したたくさんのお菓子

娘はそれを毎月狙うようになった。。。笑
お菓子を買いに行ったら
将君はこれが好きだと思うと言って
自分の好きなお菓子をカゴに入れた

最初のころは、将君の好きだったものを選んで
お供えしていたけれど
時間とともに 今、何が好きなのかがわからなくなった

ただでさえ、お供えを買うという行為が悲しいのに
それが、わからなくなってしまったことが悲しくて
泣きながら、買い物をしていた

今でも その想いは、変わらない。


月命日のたびに 私が泣くので
それを見ていた娘は、お経の最中に
お菓子を取りに行って そのお菓子を私に見せて
笑ってくれという表情をした

あるときは、お経の最中におどけて踊ったりしていた

もう少し大きくなってからは
お経が始まると 私にぴったりくっついてきて
甘えてきた

将君のことを見ているママに対して
自分を見てくれと思っていたのか
泣いているママを見たくなかったのか・・・

そして、もう少し大きくなると
お経の時や震災のニュースなどを見ている時などに
私の目頭を指で触ってきた

泣いているかどうかを確かめるため
指で触ることで ママの微妙な変化を感じようとしていた

今日、東日本大震災でお母さんを亡くした女の子のドキュメントをやっていた

それを見て、私は、ボロボロ泣いていた
そこに娘が帰ってきた

普通に話ている時に ふと私の目を見つめて
「泣いている?」と聞いてきた

娘にとって ママが泣いているかどうかは
17年前からとても重要なことで
いつも私の様子を見て育ってきた

ママが泣いているという悲しみと
自分のことよりも将君のことが大切なの?という想いが入り混じっていると思う


ちょっと前、言われたことがある
もう 将君のことで泣かなくていいでしょ?
私がいるのに・・・・と。


我が家は、家族の会話の中に いつも将君が出てくる

将君がいたら。。。という話題
将君ってこうだったよね。。。という話題
そして、最近は、娘の将君ってどんな子だったの?。。。という話題

3歳のころ
知り合いになったお母さんに娘が話しました
「将君は、地震で死んじゃったの」って。

私が、いつも人に話しているのを聞いていたから
それを言うことが特別なことではなかったようで
幼稚園に行っても小学校に行っても中学校に行っても
娘は、そのことを先生やお友達に話していたようです

幼稚園や小学校や中学校に入るとき
家族構成を書く欄があって
私は、毎回将君の名前も書いていました
(阪神大震災で死亡)という子とも付け加えて。。。

娘は、新しい生活を始めたときに
先生が将君のことを知っているかどうかを
とても気にしていました

私が、先生に伝えたよと言うと
ホッとした顔をしていました

中学校に入ると
私の書いた本を新しくできたお友達や先生に渡したいと言いました

自分で詳しく話すことは なかなかできないみたいだけど
本を渡すことで みんなに知ってもらいたかったようです

今年の1月17日 学校のお友達を初めて
1.17のつどい(追悼式)でのボランティアに誘いました

2年前にも声をかけたけれど あまり興味がなかったようで
(娘の学校は、大阪で 神戸と大阪 とても違いけれど
被害がなかった大阪では、阪神だ震災について過去の出来事になっていた
震災の前の年に生まれた娘の友達は、震災も覚えてないので興味もほとんどなかった)
娘は、その意識の違いにショックを受けたほど

そんな中、今年は、大学も決まっていたということで
2人の友達が、徹夜でボランティアに来てくれました

そして、今年から大学生になった娘
高校から一緒の子もいるし その子たちは将君のことを知っているから
特に今迄みたいに 将君のことを友達に言う必要がないのか

そんな意識もないぐらい 大学生活が楽しいのか
学校では、新しくできた友達に将君のことを言っていないんだろうな?

きょうだいの話を聞かれたらなんて言っているのかな?
そんな話題もしてないのかな??

きょうだいいる?って聞かれたら
『地震で死んじゃった』って 話している気はするけれど。。。

中には、きょうだいがいたことを 友達に話せない子もいる
親としては、辛いことだけど
親にはわからない きょうだいを失った悲しみがあるんだと思う

今回、たくさんの子供たちが
親やきょうだいなどの家族 友達を失った

想いを表現できない 周りの人に
あなたがしっかりしてねと 言われ 悲しみを出せない子供たちが
たくさんいると思う

今日見た お母さんを失った女の子(小学校6年生)もそうだと思う
そんな子供たちのことを思うと心が痛くなる

娘は、将君がいたことを覚えていない
でも、私の書いた本は、まだ読めないという

「娘の友達も読んでくれたよ」と話した時
『あの子たちは、きょうだいが死んでないから
他人事だからね・・・私は、自分のことだから 
1ページ読んだだけで涙が出てきて読めないから』
と話してくれた。

東日本大震災が起こったときに
娘は、直後から 『被災地に行きたい』と言った

私は、「今、言っても 女の子ができることはないから
今は、ここでできることを考えよう」と言ったけれど
落ち着かない様子

テレビで見る情報を見るたびに
被災地に行きたいとずっと言っていた

そして、「大人になったら大型免許を取って
自分でトラックを運転して被災地に行くんだ」と言った

学校がお休みだったので 直後から一か月近く
ずっとお手伝いしてたNPOの被災地支援のボランティアに行った

そこに来ている若い人たちを見て 娘はボソッと言った
「私は、ここにいる人たちとは違う 阪神大震災で
きょうだいが死んだから 想いが違う」と…

被災地のために何かをしたいという思いは
きっと、同じだと思う

でも、その人たちは、阪神大震災のことを
どれだけ 大切に思っているのだろうか?と思ったようだ

娘が、阪神大震災を伝えたいという活動をし始めた時に
娘は、自分と同年代の人たちが 阪神大震災のことに
興味を全くと言っていいほど持っていなかったことに
ショックを受けていた

仕方ないことなんだよね
経験した人にしか この想いは、わからないから
それを非難しても仕方ない

私たちだって 関東大震災のこと
戦争のこと 原爆のこと 他人事だったもの
歴史の中の一つとしてしか 知ることはなかったもの


娘の社会の教科書の年表に 阪神大震災のことが載った
1995年1月17日 阪神大震災
その時に、ショックを受けた
時間は、どんなに悲しい現実さえも 歴史の中の一コマにして行く

阪神大震災を伝えるという活動をした若い人たちがいた
彼ら彼女らは、子供の時に震災を経験していた

また、学生の時に神戸にボランティアに来てくれていた人が
先生になって 1月に学校で子供たちに震災のことを話していた

東日本大震災もいつか 歴史の中の一つになるときが来るでしょう

東日本大震災のボランティアに行った人たち
見てきたこと 聞いてきたこと
どうか 次の世代に伝えてください


高校生になった娘のいろんな活動を見ていて思うのは
私が、将君のことを思ってやってきた想いを
娘につなげることができたかなって。

私のように100%ではないかもしれないけれど
将君のことは 娘の心の中にしっかりと残っていくと思う

将君の生きた証
次の世代につなげることができたと思う
2012.05.07 Mon l 優ちゃんの想い l コメント (0) トラックバック (0) l top
南相馬市で頑張る少女合唱団 MJCアンサンブルが歌うオリジナ​ル曲「Pray」
http://www.youtube.com/​watch?v=egvFlG6gpZk

この曲を聞いて 自分の想いと重ね合わせました
とても、心に沁みこんでくるメロディと歌詞だけど

震災直後の私は、どう感じただろうなと思いました

①悲しみでいっぱいで この曲を知るだけの
心の余裕はなかった

②悲しみの感情しか持っていなかったので
この曲を聞いて 感動する心を持っていなかった

③生きている罪悪感がいっぱいで
前を向いて歩く気持ちを「全く」持っていなかったので
前向きな気持ちを受け入れることはできなかった

かな?


でも、今は、この曲に心がとまり
そして、感動できる心があります

うん、私、頑張ってきたよね♪


阪神大震災から時間が経つにつれ
被災した方たち 家族を失った方たちが
悲しみを抱えながら前を向いて歩きだしたという
報道が多く流れるようになった

また、亡くなった子供のために
お地蔵さんをたてるとか 桜を植えるとか
亡くなった子供への想いを形にしている人たちの
報道が多く流れるようになった

悲しむことしかできず 何も前に進んでいなかった私

いつまでも前を向けずにいる自分を責めた
将君のために何もしてあげれていない自分を責めた

生きる価値のない人間だと…

でも、次の子ができ 前を向いて歩きだしたと
取材してもらっている友達の 現実を私は知っていた

メディアで流された映像では、紹介されなかった想い
亡くなった子供のことを強く思っていた彼女
次生まれてくる子供に対する想い

報道というものは、ある程度のシナリオがあり
その部分だけだ ピックアップされてしまう

ピックアップされるテーマ それは、世間の流れでもある

阪神大震災から 17年間の報道の傾向を見ると
それが、よくわかる

震災から 15年
今まで、私に来ていた取材が すべて娘への取材に変わった

「きょうだいを亡くした子供たちの想い」

あの時、1歳半だった娘は
息子のことを覚えていない もちろん 阪神大震災のことも
全く記憶にない・・・・

そんな 娘に何を求めるんだろう?

それでも、娘は、それまでの経験より
取材を受けたら どんなことを話したらいいのか
頭で理解していた

自分の本当の想いではない想いなのに…

娘が言った、
『阪神だ震災のこと覚えてないし
将君が死んでしまった時 悲しい思いをした記憶ないし・・・』って。

『適当に言っていいなら 取材受けてもいいよ』という娘に 
私は、「それなら取材を受けなくていい」と言った。

地震の時のこと きょうだいと遊んだ記憶さえもない娘。
娘にとっての阪神大震災は、ママの悲しみとともに 記憶に残っている

ママの笑顔の数と比例して 娘にも笑顔が増えて行った


1歳半の娘は、年齢とともに 
「震災」や「死」を自分の中で少しずつ理解していった

『なくなってしまうこと=死』と理解した3歳のころの娘の言葉

ヨーグルトを食べ終わった娘は
「ママ、ヨーグルト死んじゃったね」と話してくれた

4個ある物を見ては、
「ママ、うちの家族 ゆうちゃんと しょうくんと パパとママと同じだね」
と言っていた


死を理解するにつれて ママが経験したことが とても辛いことだと
少しずつ理解していった気がする

それと同時に いつまでも将君のことで泣いているママに対して
自分をしっかりとみてほしいという思いは 強くなっていった気がする

私は、娘の言葉や行動に 励まされて その一瞬一瞬を生きることができた
そして、その一瞬一瞬の積み重ねが 17年という年月になった


震災だけではなく いろんな原因で子供を失った人
きっと、最初のころは、まだ残った(生きてくれていた)子どもの存在を
大切に思う余裕は、ないかもしれない

1歳半だった 娘でさえ
ママの悲しみをから いっぱい色んなことを感じて 生きていた

それに気が付くには 何年もかかったけれど

いや、わかっていたけれど 自分が生きるのに精いっぱいで
どうすることもできなかった

いや、どうしていいのかわからなかった


この17年間で
傷ついた人たちを取り巻く環境が随分変わってきた気がする


心のケアという言葉さえ 珍しかった17年前
あれから いろんな分野で心のケアの重要性が認められてきた


震災から何年も 心のケアを受けて
楽になったらいけないと ずっと思っていたっけ
苦しまなくちゃいけないって・・・


でも、生きなければならないと
自分の想いとは別のところ(娘のために)で そう思ったとき

どうしたら この辛く苦しい思いを抱えて
生きていけるのかが 知りたかった

大昔から 子供を失った人はいっぱいいた
でも、その人たちは、どうやって生きてきたのか
どうすれば、生きられるのかって・・・

ネットが 日常的でなかった時代
「子どもの死」と検索しても 何も出てこなかった時代

孤独だったなぁ~って 思う


息子のために 息子の生きた証を残すために
私は、生きなければいけないのかと思い始めたのが
震災から1年ちょっと経った頃

何をしたらいいのかもわからなかった

被災地から遠く離れた山口で生活していると
情報も入ってこない

夫婦間の想いの違いもあって
そのことで 苦しみ始めた時期でもあった

1999年
ようやく 一部の人の中で ネットが日常的になっていった
そこで出会った人たちと 想いを共有した

亡くなった理由や年齢は さまざまだった

お腹の中で亡くした人がほとんどだった

それでも 幼いわが子を失った母としての想いは
一緒だった・・・

将君を失った直後 自分と同じ条件の人を捜し求めていた
でも、そこで 自分とは違う経験をした人でも
共有できる思いがあることを知った

もちろん、考え方は それぞれなので
共有できない想いもたくさんあったけれどね


そう思うと 東日本大震災から まだ、1年ちょっと
辛い経験をした人にとって その瞬間その瞬間を生きるのが精いっぱいだろうと思う

メディアやネットを通じて 得た情報に
一喜一憂しながら 頑張れない自分に落ち込んだりしている人
頑張りたくない 元気になりたくないと かたくなに思っている人
人から見ると 大切な人を失ったと思わせないぐらい
たくさんのことを頑張ってい生きている人
でも、その原動力は亡くなった人への想いであるということ
何かをしていないと 生きていけないと ただがむしゃらに頑張っている人

きっときっと いろんな想いで今を生きている人がいるだろうな

それで、いいんだよ
その人の悲しみ辛さは その人にしかわからない
そして、前を向く時間も方法も
その人にあった時間や方法があると思うから


その方法が、いろんな人に非難されたり 指摘されたり
違うって言われてしまって 落ち込んだりするかもしれないけれど

大切な人を想う自分の気持ちを信じて
大切な人のために 今の時間を過ごしてほしい

大切な人を想う気持ちは
絶対に その人に届いていると思うから

たとえ、涙を流すということであっても…
大切な人には、その人を想う温かい想いとして届いていると思う


思ったまま言葉にしたので
まとまりのない文章になってしまいました

ま、いいか。。。。
2012.05.04 Fri l 阪神大震災への想い l コメント (4) トラックバック (0) l top
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