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自分が、頑張って生きてきた道や出会い。

いろんな出会いがあったけれど、
私にとっては、今を生きることができるようになった
意味のある出会いが いくつかあった


その昔、ある人にその話をしたら
その人は、私の大切な人や会について
否定する言葉を言われた。


その人にとって、その人や会は
否定すべき存在かもしれないけれど

私にとっては、大切な存在。

それらが、なければ 
今の私はいないかもしれないというほど大切な存在。


世の中、いろんな考え方の人がいる
ある人にとって、受け入れられないほどのことも
違う人にとっては、大切だと思えることだってたくさんある。


知り合いが、言っていた。

遺族会には、それぞれの性格があるので
自分に合った場所に行くことが大切



自分の考え方が、正解ではない。
人それぞれに その人にとって大切なことがある。

違って当たり前。
だって、考え方も感じ方も表現の仕方も
性格も状況も・・・・ 色んなことが違うんだもの。


同じところがあれば、一緒だねって繋がって
違う部分があれば、そんな考え方もあるんだと受け入れる。


その考え方に染まるんではなく、自分の考えは自分の考え
人の考えは人の考え、どちらも間違っていない

お互いを受け入れてあげることができたら
繋がっていけるんだと思ってる。


そう思えるようになるまで、何年もかかったけれど
相手を認めることができると いろんなこと少しは楽になった。


最初は、どんな自分も自分自身で受けれるようになった時
どこか、吹っ切れた気がした。

そこからだったかな・・・・。

そしたら、友達の想いにも心を寄せることができるようになった。


簡単なことじゃないけれどね。


実例を挙げて説明できないから
わかりにくい文章でごめんなさい


今が、心から楽しいと思える日々を送れるようになったということは
私が生きてきた18年半は、間違っていなかったんだよね きっと・・・・。

頑張ってきた自分に自信を持って
これからも生きていこうと思う。
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2013.08.27 Tue l 生きるために l コメント (0) トラックバック (0) l top
来週は、久しぶりに同級生たちと会う。

震災後始めて同級生と会ったのは、震災から10年が過ぎた時だった。

こんな自分をみんなはどんな目で見るんだろう?
子供を失った自分は、同級生の中で存在できるのかな?

そんな不安を抱えてみんなに会いに行った。


でも、そんな不安はどこへやら?
みんなに会った瞬間、〇年前の高校時代に逆戻り

あの子は、どうしてる?
今の自分の生活を話す暇がないぐらい
高校時代の話題に花が咲いた。


あ、私、子供を亡くしてない時代があったんだ
って 初めて気が付いた。

将君が死んでしまったとき、自分の人生はなくなった
そう感じて生きてきた

あるのは、悲しみという世界の中の自分だけ


だから、同級生と会ったとき
非日常の世界である、もう一つの世界ができた気がした。

というか、もう一つの世界があったことに気が付いたのよね。


今の私、ふたつの世界を行ったり来たりしながら
生きている。

最初は、なかなか上手にスイッチを入れかえれなかったけれど
今では、スイッチ一つで世界を変えることができる


プチ同窓会は、14人ほど集まる

私の中でとてもとても楽しい時間。

そんな時間があるから 悲しみの中で生きていられるんだろうなって思う
2013.08.24 Sat l 父母への想い l コメント (2) トラックバック (0) l top
1個前の日記の続き。


今では、そんな経験してたなんてわからなかった
とっても明るいからって よく言われますが

こんな私も、ぐちゃぐちゃな毎日を送っていた時間が
とてもとても とても・・・・長くありました。。。。


自分を否定し 他人を否し 友達を否定してきた時期

メディアで、子供を失ったお母さんが、亡くなった子供のために
お地蔵さんを作ったり 本を出したり 慰霊碑を建てたり
いろんなことをしていると紹介されているのを見て

私は、何もしてあげてない 何もできていないと
自分を責めたりしていました。

私だって、あの人たちと同じぐらい
ううん、もっともっと 将君のあるべき人生を送らせてあげれなかったと
助けることができなかったことで苦しんでいるのにって。

そんなことにさえも 苦しんで悲しんでいた私。

そばにいて、私のためにと真剣に考えてくれていた友達の事さえも
私は、否定しいて 関係を絶ってしまいました。


誰も友達じゃなくてもいいって。。。


突然連絡が取れなくなった私(引っ越しをしたので手紙を送っても戻ってくる)を
心配してくれていたんだと思います。


10年以上たって ふとみんなに連絡を取りたいと思いました
でも、みんなが、どう思うかと思うと なかなかそれができなかった


でも、ある年 年賀状を送ることにしました。

10年以上連絡を取っていなかったので
何通もあて先不明で帰ってきました

でも、何通かお手紙が帰ってきました
何人かから電話がありました


「あれから、連絡が取れなかったとれなくなって
すごく心配していた

テレビや新聞は、何度か見たよ


今回、連絡ありがとう
連絡くれたことすごくうれしかった」

って。


私から縁を切った友達もみんなそう言ってくれました。



今、思います、その子は、私と離れていた時間も
ずっと私のそばにいてくれたんだなって。

私がどんな辛いことを言っても 
そんな状態の私を受け入れてくれて

悲しんでいる私も 元気になる私も
すべてを否定する気持ちも受け入れてくれる人。


でも、一番すごいなって思うのは
その人をすごい言葉で否定しても それまでの私を知っている人は
私がそんな人ではないことをわかってくれて

そんな私も子供を失った悲しみからの言葉であると受け入れてくれること

その時は、何も言わなかったけれど
何年か経ったときに連絡をしたときに心から心配してたことを話してくれた


私が、その人の私を思って言ってくれた言葉に傷つき
その人の存在を否定しても
それでも、その状況が子供を失った悲しさからくるものだと
理解してくれていた。


そんな友達の存在に 本当に本当に感謝しています
2013.08.23 Fri l 友達への感謝 l コメント (0) トラックバック (0) l top
東日本大震災が起こってから 心がしんどくなって 
それまでの自分で入れらなくなって治療を受けた


その治療の中で 今までの自分を振り返ることになった

辛いだけの自分ではなく 辛い中から歩いてきた自分も。



たくさんのことがあり
そのひとつひとつに一喜一憂し

折角歩いてきた道も 一瞬にして逆戻りし 「ふりだし」に戻ったこと
何度も何度もあった。


それでも、振り返ってみれば 少しずつだったけれど歩いてきてた。


よく、世間では
「悲嘆からの回復」や「立ち直った」とか「前を向いて歩き始める」
とか 言われているけれど それって何を持って そういうんだろう?

って よく思っていた

世間一般のことは わからず ただ自分の事しかわからなかったけれど

でも、自分の今の状況が
回復したのか 立ち直っているのか 前を向いて歩き始めているのか

それさえもわからなかった


でも、振り返ってみると
18年半前の私と今の私は、確実に違う

いつ どんなふうに 私は変わってきたんだろう?

たくさんの出来事
たくさんの人の出会い

そして、どん底にいる時に 考えた
一つ一つの息子への想い

息子のためにこれをしてあげたい
こんな風にするしか生きられないと

思ってきたこと ひとつひとつの積み重ねが
今の私を作ってきたんだなって思った


将君のために お供えのお菓子を買いに行くこと
将君のために お花を買いに行くこと

将君のために 想いをつづること
将君のために 悲しみ続けること
将君のために 将君のために 将君のために・・・・


将君のためにしてきたことが
私を生きさせてくれた

将君のためにすることが 今を生きるためだった

そんな風にして 生きていることさえも
助けられなかった私が生きていると
罪悪感を感じていたけど・・・・・(^_^;)


同じ経験をした人たちとの出会いは
そんな罪悪感を持った自分が、特別ではないことを教えてくれた

経験は、それぞれだったけれど
人として いけないこと(自分の価値観だけど)を思う気持ちが、
子供を失った人なら、多くの人が持つ気持ちである
ということを知り 安心できた。



私の周りには、私のことを心配してくれる友達がいっぱいいた。

でも、みんな私にどう接していいかわからずにいたと思う
それでも、みんな一生懸命に考えてくれた。

今みたいに パソコンもなかったし
メールも無かった もちろん、ブログも SNSも。。。。


直接会いに来てくれるか 電話か お手紙しか
みんなが 私に思いを伝えてくれる方法はなかった。

メールやSNSなど 顔を見なくて 文字だけで
想いを伝えるって ある意味楽だと思う。

直接 顔を見なくて住むから 相手のその時の反応を
気にかけず 自分の想いを伝えられるから。

時には、お互いにそのほうがいい場合もある。
時間も24時間いつでも 伝えられるから。


でも、私の友達の場合
直接 訪ねてきてくれたり 直接電話をくれた。


その『直接』が、どれだけ勇気のいることだったか 想像できる


その勇気をもって 私に接してくれたみんな
それだけ、私のことを本当に心配してくれていたんだと
今になって思ったりする。

そんな友達にさえも 私は、長い間否定してきた
そして、勝手に壁を作っていた。


いつだったか、とても信頼している友達に言われたことがある

私が、みんなが 子供を失った私に壁を作っている気がする。
子供を失った私に対して 近づきづらいという壁をと 言った。


その時に、その友達が言った
「その壁を作っているのは あなただよ」って。


その言葉に ドキッとした。
私目線ではなく、子供を失った友達を持つ 友達目線からの視点。

自分では、絶対に気が付かない視点。


でも、その時の私は、その言葉をあまり理解できなかった
でも、理解しようと色々考えた。


そう思えたのは、その友達を私が信頼していたから。



こんな風に 日常のいろんなことが
いろんなことを考えさせてくれた


そんなことの積み重ねの18年半。
そして、今の私がいる。


将君のことを想って想って想って
泣いて泣いて泣いて

そして、そばにいる友達が、そんな私を受け入れてくれて
そんな友達の言葉を受け入れて考えて来た。


私のことを受け入れてくれていた友達の言葉だったから
私も受け入れることができたのかもね



次に続く・・・・
2013.08.19 Mon l 友達への感謝 l コメント (0) トラックバック (0) l top
お盆休みは、主人の実家に行きます。

主人の実家は、関東。
そして、その帰りに、ちょっと足を延ばして
仙台に行こうと思っています。

最初に、そのお友達に会いに仙台まで行ったのは
今年の2月の末でした。

その友達にとって 大切な大切な場所に
案内していただきました。

そこでは、ただただ祈ることしかできませんでした。

大切な場所には、友達の大切なものが、置いてありました。

私には、わかってあげることはできない
たくさんの想いを持って生きている友達。

その友達にとって その場所がどれだけ大切な場所なのか
想像することしかできない私は

その大切な場所に、入らせてもらえたことに対して
ただただ、感謝しました。

友達なりに たくさんの想いをこめて
その大切な場所に大切な空間を作っておられました。

一見、ただおいてあるだけのように見えるけれど
でも、一つ一つに想いがありその場所のあるものだということは
彼女のそれらの物への想いを聞いて想像できました。

大切な人を思う 誰にも侵されたくないその友達の大切な空間・・・
なんだと感じました。


6月、再び彼女に会いに行きました。
そして、その大切な場所に案内してもらいました。

お父さんが植えていらっしゃったというバラが
花を咲かせたと教えてくれました。

たくさんの思いがこもった お花やトウモロコシ
じゃがいもが植えられていました。


あの時に見せていただいた トウモロコシは
大きくなったかしら・・・・

あの時に小さかったひまわりは、大きくなって きっときれいなお花を
咲かせていることでしょうね

たくさん咲いていたお花は、新しい種を作り
来年に向けての準備を始めている頃かしら?



**************************

この間、父のお墓参りに行ってきました。

お掃除をしているときに小さなお花をつけた雑草を見つけました。
そのお花を見て 私がそこに行かない時に
父のそばにいてくれたんだなって思いました。

ありがとうって 思ったら その雑草を抜くことができませんでした。

人から見ると ただの小さなどこにでも生えている雑草かもしれないけれど
私にとっては、父に寄り添ってくれていた大切なお花。

私にとっては、大切なものなのよね。


そして、隣のお墓にたくさんの雑草が生えていました。

お墓には、この間来たのかな?とわかるぐらい
まだ、枯れていないお花が、供えられていました。

雑草が気になったけれど
もしかしたら、あえて抜かないのかもねと話しながら、
そのままにしてきました。

ついつい きれいにしてあげたくなっちゃうけれど
想いは、それぞれなのよね。

たとえ、私には、雑草に見えても
その方には、想いがあるのかもしれないものね

大切な大切な場所だからこそ、想いはわかってほしいもんね。
2013.08.11 Sun l 父母への想い l コメント (0) トラックバック (0) l top
絵本の原稿のために
古い日記を読み返していました

2001年1月の日記
http://www.ne.jp/asahi/sho/yu/shou/04diary/mama_diary200101-116.htm


『強くなった理由、それは『将くんへの愛』のおかげ』
強くなった理由
なんだろう、私も完全に強くなっていないので
ちゃんとした答えは出せないけれど、私の場合は、将くんの事を思いつづけていることを誇りに思っていることかな?
亡くなったって、私の子供であることは変わらない。それを忘れて早く元気になってって、いうほうがおかしいと思う。
だって、生きている子のことを忘れられる?考えないで生きていける?自分のそばから離れて、どこかで暮らしていただけでも、あいたくなるよね。どうしてるかなって心配になるよね。それと一緒。それだけ、愛しているから・・・。
それは、生きていても天国へ旅立っても、変わらない、同じ母親の愛です。

絶対忘れられないし、その愛を自信を持って人に伝えて行く、
それによって、人が何を言ってもいい、批判されても、想いは変わらない。そんな想いに自信をもてるようになったから、随分強くなれた気がする。
将くんへの愛のおかげかな?
そして、今のこの命あるのは、ゆうちゃんのおかげです。

将くんとゆうちゃん、二人の大切な子供達に感謝!



******************

日記を読んでいて、震災から 6年たったころから
少しずつ気持ちが変わってきている。

5年目に ホームページを作り
同じようにお子さんを亡くした人たちと ネット上で交流をしてきた

自分の想いだけじゃなく、いろんな人の想いや考え方を
知ることができた。

だからかな?いろんなことをプラスにとる思考も
身についてきた。。。。。

それが、6年目のころ。

よく、悲しみは、時間が解決すると言われるけれど

「6年」という時間が そうさせてくれたのではなく
「6年の間に出会った人たちのおかげかな?」



昔の想いを読めば読むほど
原稿がまとまらない。。。。(^_^;)


そして、また今日が終わる・・・・
2013.08.10 Sat l ママの想い l コメント (0) トラックバック (0) l top
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お宮参り 一才のお誕生日の時家族写真を撮りました。


男女の双子でこれからどんなふうに成長していくのだろうと楽しみにしていた時に
阪神大震災が起こり、息子が天国に旅立ちました。

双子のなので七五三も入学も成人式も一緒にできると楽しみにしていました。
七五三は、息子がいないという深い悲しみの中、
どうしても娘だけの七五三の写真を撮ってお祝いする気持ちになることができませんでした。

入学式の時も娘のことを想い、写真を残してやらなければと思いましたが、
一緒に入学する息子がいない悲しさから どうしても娘だけの写真を撮ることができませんでした。
3歳の七五三に撮ってあげれなかったから撮ってあげたい、
でも、それができない今の自分の悲しみ。

その板挟みでいろいろ悩みました。

でも、やっぱり娘に写真を残してやりたいと思い、
思い切って息子の写真と一緒に撮影をできないかと問い合わせをしたところ、
快く受けてくださいました。


そして、今年、20歳になり、来年の1月、成人式を迎えます。
七五三の時には、悲しみが大きすぎてお祝いをしてやることがでず写真も残してやることができませんでした。

あの日から18年以上が経ち いろんな人に支えられ、
やっと成人式には、七五三には、残してやれなかった分
たくさん写真を残してやりたいと思えるようになりました。

でも、本当なら息子も一緒に成人式を迎えるはずだと思うと 
娘が成長した喜びと同時に成長できなかった息子の事を思うと
今でもつらく悲しい思いになります。

入学式の時にお願いした写真館さんなら 
息子の写真と一緒に撮影することを受け入れてくださると思い
ご連絡させていただきました。

思っていました通り、入学式の時と同じように快く引く受けてくださいました。


あの日から、ずっと息子のいない成人式のことを思うと心苦しく辛く思っていましたが、
思い通りに息子の写真と一緒に成人式の写真撮ることができ、
本当によかったと思っています。


最後まで悩んでいた 一枚のカット、それは、私と息子の写真とのカットです。

撮影が始まってからも 撮ろうかどうか迷っていました。

撮影が進むにつれて、娘の晴れ姿を撮ってもらっている様子を見て
やっぱり 息子のために 息子の成人式の写真も撮りたくなりました。

でも、撮りたいけれど、そのカットをスタッフの方に撮りたいと伝えられずにいました。

そんなとき、スタッフの方が、息子の写真の裏に書いてある ミッキーのサインを見つけてくださって
その時の話を聞いてきてくださいました。

天国の息子のことも受け入れてくださっている気がして
伝えることができずにいた、息子の写真と私のカットを撮りたいと伝えることができました。


この世にいない息子の成人式のお祝いをしてやることができたこと
本当に本当に感謝しています。

息子の写真と一緒に成人式の写真を一緒に撮ることができたこと これから私が生きていくための支えになります。
本当にありがとうございました。


最後になりましたが、娘もスタジオの撮影のみだけでなく、西宮えびすでの撮影も
着物で歩く大変さや 日差しなどもとても配慮していただき
女優さんになった気分で、楽しく撮影だった クセになりそうと話していました。

アルバムの表紙は、恥ずかしいから自分の写真は絶対に嫌だと言っていたのですが
出来上がった写真を見て とてもきれいに写していただき
自分の写真でもいいと 言ってくれました。

大好きなワンちゃんとの写真も思い出になりました。


七五三に、写真を撮ってやれなかったこと、娘にずっとずっと 心の中で申し訳なく思っていました。
でも、あの時は仕方なかったと自分に言い聞かせて生きてきました。

どの写真も愛おしくて 選びきれずにたくさん焼き増しを注文してしまいました。
娘も親の愛情を改めて感じてくれたようです。



天国に旅立った息子の生きるはずだった 過ごすはずだった時間を思うと
どんなことをしても 悲しさなしでは、過ごせません。


でも、どんなに悲しんでもどんなに否定しても どんなに嫌だと言ってもえ
時間は、流れていきます。

その時間の流れに たくさんたくさん苦しんできました
そのたびそのたび、たくさんたくさん 泣いてきました

でも、それでも いてくれたら幸せだったのにという
いろんな出来事が、日々襲ってきます(+_+)


いつしか、そんな日々を泣いて暮らすのではなく
将君のためにできることをしようと思えるようになりました


成人式
私にとって 大きな出来事でした

二人がお腹に入った時から
その時の幸せな時間を夢見ていました

その分、将君のいない時間をどう過ごしたらいいのかも
考えてきました


今回の、成人式の写真
自分の納得のいく写真を撮ることができました
2013.08.07 Wed l 成人式 l コメント (2) トラックバック (0) l top
今日は、宝塚市の花火大会です。

私が、その花火大会に初めて行ったのは、小学校3年生か4年生のころ。

父の勤めていた会社が、宝塚の花火がすぐ目の前に見える場所を
会社の寮として購入した年だった。

その日、会社の人や取引先の方が来られるとのことで
家族でお掃除に行ったと記憶している。

そこは、打ち上げ花火の火の粉が落ちてくる真下ぐらいの場所で
すごくきれいに花火が見えた気がする

その花火大会は、仕事人間だった父と、家族で出かけることもなく
私の記憶に残っている 父との思い出としてのワンシーンです。

その後、何度か宝塚の花火大会に行った。

主人と付き合ったときも、主人を親戚の人に紹介する場として
みんなが集まるそ花火大会を父は選んだ。


私にとって、楽しい思い出のあるその寮は
私たちが、震災後 一時的に避難をさせてもらった場所でもある


花火大会でみんなで食事をしたその場所に
亡くなった将君を寝かせた

その後、移動し お通夜まで過ごした部屋は、
主人を親戚の人に紹介するときに使った部屋だった。


そして、その寮で 将君のお葬式をした。


楽しい思い出が詰まった その場所は、悲しい場所の思い出に上書き保存されてしまった。



震災から数年たった時に
父が、花火大会に誘ってくれた

私は、「その場所は、将君のお葬式をした場所だから辛くて行けない」
と言ったら 父は言った

「いつまでも、そんなんやったら、あかんやろ!」と。

その時の私は、その場所だけは 行けないと 涙が出そうなのをこらえて
父に話した。



そして、父が亡くなった。


ネットで、宝塚花火大会協賛金を募集していた
協賛金を出資した人は、特別のエリアで椅子に座って見ることができるという。

主人に相談して それを見に行くことにした。


辛くて苦しくて ずっと行っていなかった宝塚の花火大会。
ずいぶん、迷ったけれど 父との思い出のある花火大会に行って
父を感じたかったから 頑張っていくことにした。

出資者のエリアは、父の会社の寮の近く。
そこに行くときに その寮の看板が見えた。

父を想い 将君を想い 楽しかった時のことを思い出し
将君のお葬式を思い出した。

ただ、きれいだなって 思うだけの花火大会ではなかったけれど
その場所に頑張ってこれたことを 父は、喜んでくれるかな?って思った





将君を花火大会に連れて行ってあげれなかったこと思うと
辛いけれど、私の目を通して 私の経験を通して

将君にいろんな経験をさせてあげたいなって思った

いつか 将君に会える時が来たら
そのことを話してあげるんだ~(^o^)


あれ以来、花火大会に入っていないけれど
毎年、宝塚の花火大会に行っていた父は、今年も天国でも見ているだろうな
2013.08.07 Wed l 父母への想い l コメント (0) トラックバック (0) l top
68年前の明日、8月6日の午前8時15分
広島に原子爆弾が投下されました。

結婚して、私は 広島に住みました。
歴史の中の出来事としてしか 戦争を知らない年代の私。

原爆も社会の教科書でしか知りませんでした
それ以上のことを深く知ろうともしませんでした。


そのことに罪悪感を感じることもありませんでした。


でも、広島に住んだ時に 日常的に原爆ドームに誰々が来たとか
いろんなニュースが流れていました。

病院には、原爆手帳を持っている方は、出してくださいと言う
張り紙が普通に貼ってありました。


歴史の中の一つの出来事としてしか見ていなかった
広島の原爆が、今も日常に存在していることに大きなショックを受けました


それまでよりも身近になったけれど
私は何もしなかった


その後、転勤を重ねて 阪神大震災の前の年
広島と県境にある山口の町に引っ越した

そして、その時 実家に帰っていて阪神大震災で息子を失った

阪神大震災の年は、戦後50年の年でした。
その年の今頃、テレビでは、戦争についてのたくさんの番組やニュースが
放送されていました。

その一つの番組で 一人のおばあさんが
お話をしていました(こんな感じの内容)

「私の子供は、5歳の時に原爆の犠牲になった。
辛くてあの時のことは、ずっと話すことをせずに生きてきた

でも、あれから50年経ち 自分も年をとり
自分の命もあとどれぐらいあるかわからない

このまま、自分が死んでしまったら
あの子が、この世にいたことが 消えてしまう。

あの子の存在が消えてしまう
そうならないためにも あの子のことを話そうと思った」


50年たって初めて 亡くなった子供のことを話そうと思った気持ちを
話されていた。

そのおばあさんの気持ちが、すごくわかった


わずか、一歳半しか生きていなかった将君が
みんなの中から消えてしまうのが悲しいと
思っていた時だったから。

将君のことをみんなに覚えていてもらうために
頑張って外に行って将君のことを話し始めた時だったから。


18年たった今でも、そのおばあさんのことを時々思い出す

おばあさんの名前も子供さんの名前も覚えていないけれど

でも、そんな風に 50年が経っても
子供のことを思い続けている一人のお母さんがいたことを
私は忘れない。


そして、50年たっても 70年たっても
お母さんが生きている限り 子供のことを思い続けているのよね
2013.08.05 Mon l 将君への想い l コメント (0) トラックバック (0) l top

パソコンからログインしようとしたら
アクセスが集中していますと、メッセージが出て
ここしばらく、ログインできない状態が、続いてる。。

これは、スマホからの投稿。

何故、スマホならログインできるんだろう?
2013.08.05 Mon l 未分類 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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